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from EDITOR|ENGINE 2011.7 No.130


 数日前、外出先から戻って編集部の前まで来ると、編集部が入居するビルの階下にあるレストランのオウナーと鉢合わせした。挨拶を交わしてすれ違った――とおもったら、忘れていた用事でも思い出したのか、引き返してきたかれがいった。
「じつは、近々、ここを閉めることにしたんです」
 すぐにおもったのは、このところの不景気で客足が遠のいたせいなのか、ということだった。
「いいえ、そうじゃないんです」
 ゆったりとした自然なウェーヴがエレガントに流れるかれの長髪に、レストランがオープンした6、7年前には見当たらなかった白髪が、ところどころ混じるようになったことに、そのとき、あらためて気づいた。いわゆる脱サラをして、周囲に商店とてほとんどないこの住宅地のただなかに、自然派の小さなイタロ・フレンチ・レストランをかれが開いてから、それだけの時間がたったのだ。「美味しく食べて健康に」がモットーのかれのレストランは、有機農家直送の野菜や、市場を経ないで生産者から直接仕入れる魚や肉を、素材の持ち味を最大限引き出すことをこころがけて調理する主義で、味はむろんだが、そういうポリシーにも共鳴するファンを徐々に増やしていった。すばらしいワイン・リストもあったし、だんだん評判が評判を呼び、オープン後2、3年もすると、雑誌の取材を受けるようになるぐらいの、ちょっと知られた自然派レストランになっていた。雑誌の追い込みの時期に編集部のみんなが徹夜で仕事をしているときなど、階下からうまい苦みのある無農薬コーヒーを淹れて、みずから持ってきてくれたりもした。
 納得のゆく素材で納得のゆく料理を提供して、常連のお客がいて、ヴェランダに鉢植えしたハーブ類がどんどん育ってみごとなながめを呈するようになって、かれの人生を賭けた仕事は、かれの努力にそれなりに報いているように僕には見えていた。それなのに、店を閉めるのだという。
 その決断の根っこにあったのはフクシマだった。あの、いまだ終結の見通しの立っていない事故以来、洗いものをする水道水は、微量の残留農薬にもこだわっていたかれにとって、悩みのたねだった。3月下旬には、東京の水道水を供給する浄水場のひとつから、「乳児の飲用には適さない」とされるレベルの放射性ヨウ素が検出されたことは記憶にあたらしい。現在は、そのヨウ素もセシウム137、同134も、具体的な数値はあきらかにされていないけれど、国の定めた基準未満ということになっている。基準をこえたときでも、「大人が飲むぶんには問題ない」と、政府はじめ行政機関がいっていたぐらいで、この問題をそれほど深刻に受け止めなかった人もたくさんいた。ましてや、いまはあわててミネラル・ウォーターを買いに走る状況ではない、と多くの人は内に不安をかかえつつもおもっているようで、スーパーでもコンビニでも、ミネラル・ウォーターの棚に空きは見当たらない。そんななかでかれは、やはり国の基準では問題ないとされる「微量の残留農薬」にこだわったように、「微量の放射性物質」にこだわったのだった。それは、「美味しく食べて健康に」を信条としてきたレストラン・オウナーとしてのかれの、態度の一貫性を証す固執だ。
 かれのようにかんがえない人もたくさんいるだろう。そして、それにもまた、「科学的」とされる根拠があることを僕はうたがわない。結局のところ、「微量」の残留農薬にしろ放射性物質にしろ、あるいは微量とはいえない相当量のそれらにしろ、すべての人間に健康破壊的な影響をあたえるわけではないことを、僕たちは経験的に知っている。それはまた、少数ではあっても影響を受ける人がいる、ということでもあることを、しかし、見逃してはならない。
 クルマは、事故を起こしてじぶんもふくむ人間の生命を失わせたり、その排気によって健康被害をもたらしたりすることを僕たちは知っている。僕たちの社会は、クルマ反対派がいるにしても、そういうクルマを許容する社会であり、だから、僕たちは好きなときにクルマに乗ることができる。いっぽう、クルマにかかわるとされる健康被害の総量が、世界中の原発が持ち得る健康被害の総量よりも大きいのか小さいのか、それを知る計算式はまだ知られていない。知られたら、僕たちのように趣味としてクルマを愛する者が、社会的に許容されるのだろうか、とおもう。僕は原発のない社会を好み、電力のある社会を好み、クルマが走りまわることのできる社会を好む。
 僕の好みの3点セットはムシがよすぎることを、僕は認める。ムシのいい欲望が開けたパンドラの箱から飛び出したもののうち、どれを箱に送り返すべきなのか。 (鈴木正文)
 
 
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