ENGINE online/エンジン オンライン

from EDITOR|ENGINE 2007.11 No.086


 むかし、地下鉄に乗っていてすばらしくうつくしい女性を見かけたことがあった。乗降口のところに立っていたかの女に気づいた瞬間、胸が高鳴った。座っていた僕は、立ち上がろうとした。かの女に話しかけようとかんがえるよりさきに、身体がうごいた。しかしそのとき、車両が駅に止まり、かの女は中腰になった僕の視線に気づかないまま、僕を残して降車し、通勤者たちの海のなかの見えない波頭となって消えた。翌朝、おなじ地下鉄のなかでおなじ女性の姿を、僕の目がふたたびとらえることはなかった。そのあとも、二度とふたたびなかった。
 そんな話を友人にしたら、友人がむかしのことを語った。かれはクルマを運転していた。信号で止まっていた。かれも若かった。そのとき、通りかかったひとりの女性を見て息を呑んだ。かの女こそ、かれが理想におもい描いていたひとだった。かれはクルマを路側に寄せていた。クルマを降りようとした。そして、その女性を見失ったことに気づいた。


「耳を聾ろうする通りがわたしのまわりで唸り声をあげていた/背の高い痩せた女が、喪服に身をつつみ/威厳にみちた悲しみそのもののように、通りすぎた」


 ボードレールの「通りすがりの女に」という『悪の華』のなかの有名なソネット(十四行詩)は、こんなふうにはじまっている。
「彫像のような脚」の「気高い様子」のかの女は、一瞬で詩人のこころを奪う。そして立ち去る。
「稲妻の一瞬……あとは闇。――過ぎ去った美しい女よ/きみの眼差しはわたしを突然生きかえらせてくれたのに/きみにはもう、あの世でしか会えないのか」


 僕が地下鉄で見かけた女性、友人がクルマの窓から認めた女性、あるいはだれかが、いつのときか、一瞬の邂逅ののちに、見送らざるをえなかった美しい女性――。ボードレールの詩をつづけよう。


「ここから遠く離れた他所で。遅すぎてから。おそらくもう決して/きみがどこに去り行くかわたしは知らず、わたしがどこへ行くのかきみも知らないのだから/おお、わたしはきみを愛していたかもしれないのに。きみにはそれがわかっていたのに」


 きのうの朝のことだった。徹夜のあとに編集部を出て通りを渡ろうとしたら、1台のホンダ・ビートが目の前を通りすぎた。黄色で黒い幌を上げてあったけれど、細身の髪の長い女性が乗っていることはわかった。顔は見えなかった。少し先の赤信号が青に変わったのを見て、女性ドライヴァーはシフト・ダウンを決め、するどく加速して僕の目の前を通りすぎた。ピニンファリーナがデザインしたミニチュア・スーパーカーのお尻に、朝日が躍っていた。
「都会人をうっとりさせるのは、最初のひと目の恋よりも、むしろ最後のひと目の恋である」といったのは、ナチスに追われて非業の最期をとげた思索者、ヴァルター・ベンヤミンである。都会は「最初のひと目の恋」を無数に交錯させるけれど、おなじ数だけの「最後のひと目の恋」も交錯させる。そして、最初であっても最後であっても、一瞬の恋の相手は、いつも美しい女性とばかりはかぎらない。手に入れられない、というあきらめとともに見送ったなにかが、いつでも相手になる。
 都会はどんな瞬間にもそういうものに満ちていて、そういうものに満ちているから僕たちの欲望は、電車のなかで、アスファルトのうえで、カフェや雑踏でさまよい、揺れ惑う。僕たちが都会で暮らすのは、そうした揺れ惑いのさなかに、不意に出現する「美女」と出会うためなのかもしれない。そうにちがいない。
 クルマは都会で生まれ、都会で育った。そしてあるときから、クルマが走っているところが都会となった。そういう都会に僕は生まれ、「美女」との邂逅への期待とともに育った。
 ある種のクルマはそういう「美女」になり得る。げんにきのうの朝、顔を見せない美女が運転して走り去った黄色いビートは「美女」だった。
 クルマはクルマでしかないから、乗り手がいなければ「美女」として登場できない、という念押しをしたうえでいえば、ある種の乗り手を得たスポーツカーは、ある種の乗り手による4枚ドアの実用車にはない「彫像のような脚」と「気高い様子」によって、都会の意味をあきらかにすることができる。
 ポルシェ911がワインディング・ロードでかがやくことを僕は知っている。しかし、都会ではもっとかがやくとおもうのだ。(鈴木正文)
 
 
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